小笠原諸島周辺で、中国船が違法にサンゴを採取しているという報道が繰り返されています。本来、自衛権を持つ独立国家なら、そのような違法な行為は軍事力を行使してでも、排除するのが本筋です。
ところが、日本国家は、そのようなことはしません。「違法な行為はやめてください」と、小さな声でつぶやく程度です。
これは、憲法第9条のなせるわざです。
憲法第9条では、国際紛争を解決する手段としては、戦争、武力行使だけでなく、武力による威嚇も永久に放棄するとうたっています。さらに、我が国は交戦権も持ちませんので、日本人以外の人民に対しては、何も手出しができません。
わが国には自衛権があると言いながら、侵略をされると、結局は何もできないというのが日本国家なのです。これが、わが国の、個別的自衛権の姿です。
このような憲法第9条は、即刻改正すべきですが、そのような方向には、どうも進む見込みがありません。
このまま放置すれば、いずれ小笠原諸島は、中国が有史以来占有していたと主張してくるでしょう。つまり、小笠原諸島については、日本が放棄しなければならないということになります。
このような状況が続くと、中国は、正々堂々と、さらなる日本侵略をしてきます。それを止める手立てはないようです。
そのような中国の侵略以上に、私が最も懸念する侵略行為は、中国に進出した日本企業に対する侵略です。
中国による日本侵略のもっとも簡単な方法は、中国に進出している日本企業の工場や店舗などを、中国軍が占拠することです。
しかも、これらの軍事行動は、中国国内の内政問題ですから、日本政府は何も言いません。日本政府は、そのような日本企業の救済は一切できないということです。
中国政府の要人に巨額の裏資金を提供できる企業だけは、生き残れるかもしれません。でも、ほんとうに危ない状況になってきています。私は、心配でなりません。
衆議院の解散
11月19日に衆議院を解散して、12月14日に選挙の可能性が高まってきました。安倍首相は何も決めていないと発表しましたが、その発表は嘘で、先週の金曜日にはその日程は決めていたということです。
この選挙は、消費税率を10%に引き上げることを国民が承認するという意味があります。政府や経団連に加盟している大手企業などは、消費税率の引き上げをしたいと考えています。
しかし、国民の90%以上を占める中小・零細企業の経営者・従業員などの一般国民には、消費税率を引き上げられると、景気の悪化と生活苦が目の前に迫ってきます。
でも、ほとんどの国民はそれには気づかないようです。
消費税率を10%に引き上げるのは、社会保障制度を維持するというのが大義名分ですが、ほんとうは消費税率を50%くらいに引き上げないことには、社会保障制度を維持することはできません。10%では、とうてい足りないのです。
消費税率を3%から5%に引き上げる時も、消費税率を引き上げなければ、社会保障制度が維持できないと言っていましたが、その後、社会保障制度の財源不足は拡大するばかりで、何ら解決に向かいませんでした。消費税率を10%に引き上げても、同じことが繰り返されるだけで、何ら解決にはなりません。
社会保障制度を維持するためには、別の手段が必要です。その点を、国民はよく考える必要があるでしょう。
でも、次の衆議院選挙では、自民・公明が勝利するでしょうから、消費税率は間違いなく10%に引き上げられ、日本経済は崩壊に向かってひた走ることになります。お互いに、しっかりと生き抜くことを考えましょう。
11月13日 13時58分追記
消費税率の引き上げを、1年半延期することが内定しているという情報が入りました。それなら、なぜ衆議院を解散するのか、ほんとうに大義がないという印象をぬぐえません。
日銀の金融緩和拡大決定のねらい
10月31日に、日銀は、金融政策決定会合において、質的・量的金融緩和の拡大として、マネタリーベース(市場に流通している通貨の量と銀行が日銀に預金している当座預金残高の合計)を、今まで以上に増加させることを決定しました。
具体的内容としては、国債購入残高の増加額を、今までは年間50兆円程度としていたものを80兆円に拡大するというのが基本です。
軌を一にして、GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)は、運用方針の変更を発表しました。変更内容を、ポートフォリオの構成割合で示すと次のとおりです。
変更前 変更後
国内債券 60% 35%
国内株式 12% 25%
外国債券 11% 15%
外国株式 12% 25%
短期資産 5% -
GPIFの投資資産規模は、約127兆円です。上記の構成割合を金額に直すと、ほぼ次のようになります。
変更前 変更後
国内債券 76.2兆円 44.5兆円
国内株式 15.2兆円 31.8兆円
外国債券 14.0兆円 19.1兆円
外国株式 15.2兆円 31.8兆円
短期資産 6.4兆円 -
日銀が、金融緩和の拡大として、国債を買い増しすると言った規模は30兆円程度です。一方、GPIFは、今までの方針を変更して、国内債券の保有額を30兆円以上減少させると言っています。さらに、GPIFは、国内債券を売却した資金を国内外の株式等に投入することになります。
この一連の発表内容をまとめると、日銀は国債をGPIFから30兆円買いとって、GPIFはその資金を株式市場に投下するというものです。日銀とGPIFとの間には、銀行が介在しますが、まとめるとそのようになってしまいます。
これらの発表があって、10月31日の日経平均株価は、前日の終値が15,658円20銭であったものが、午後に急上昇し、最高値は16,533円91銭をつけ、終値では16,413円76銭となり、755円56銭の上昇で終わりました。
このように、日銀とGPIFが同時に方針変更の発表をした狙いは何だったんでしょうか。
日銀の発表では、物価の2%上昇がしきりに取り上げられます。ターゲットとしていた物価2%上昇ですが、これは厳しい状況にあると思われます。物価ですから、民間の景気が上向かなければ、ありえないのです。
そんな困難なことをするより、手っ取り早い方法があります。それが、株式価格の引き上げです。
つまり、この一連の方針転換は、上場株式の株価をつり上げることによって、景気浮揚感を醸し出し、その雰囲気に乗って、一気に消費税率を10%に上げようという政府の趣旨に沿ったものなのです。
日銀は政府と独立しているとはいうものの、総裁などの役員は内閣が任命することになっています。GPIFは、日本語では年金積立金管理運用独立行政法人と難しい名称ですが、英語ではGovernment Pension Investment Fundとなっており、政府の一機関であることがわかります。つまり、内閣、日銀、GPIFは、同じ方向で動くことができる一体のものなのです。
でも、日銀には良識が多少残っているのか、今回の方針転換においては、賛否がわかれ、5対4で黒田総裁並びに政府の方針に沿った方針転換をすることになったのです。4名の反対をした委員の方に敬意を表したいと思います。
ところで、政府は、来年、何としても消費税率を10%に引き上げたいのです。しかし、今年4月の消費税率引き上げに伴う需要の減少について、安倍首相は10月30日の衆議院の予算委員会で、「想定内ではあるが、想定の中では最も悪い数値に近い」と発表しました。
安倍首相は、12月上旬までに、来年10月から消費税率を10%に引き上げることを決定することにしていますので、景気が最悪の状態のままでは、その決定をが難しくなります。何としても、景気を上向きにしなければならないのです。
そこで登場したのが、政府の一翼を担う日銀とGPIFなのです。
私は、このような手段を講じても消費税率を引き上げたいという安倍首相の意気込みからすると、消費税率は間違いなく10%への引き上げは決定すると考えています。
たとえ株価が一時的に多少上昇したとしても、今後の景気は4月の消費税率の引き上げで大きく後退をします。仮に12月に消費税率の引き上げを決めても、景気の大幅な後退を見れば、消費税率引き上げを思いとどまるのが正しい判断です。
しかし、政府は、そのようなことはお構いなしに、決めたことは実行しなければ海外から非難されることなどを理由に強硬するはずです。
今の状況を第二次世界大戦当時に引き直すと、武器も食料も持たず、インパールへ侵攻していった日本軍と同じ姿です。あるいは、米軍の航空機によって攻撃されることがわかっていながら、航空機による護衛もなく、単独で沖縄へ向かった戦艦大和と同じと言ってもいいでしょう。
最悪の政策だけは思いとどまってほしいというのが私の希望ですが、それは極めて難しいことのようです。
私がこのブログを始めたわけ
私は、1985年(昭和60年)に公認会計士の資格を取得し、現在は、公認会計士・税理士として仕事をしています。公認会計士と言っても監査はしませんので、仕事内容は、ほぼ税理士の仕事です。
税理士として中小企業の顧問をするうえで、日本経済がどうなるのかは、非常に重要なポイントだと以前から思っていました。そのようなとき、景気循環論に出会い、私の経済循環の考えはまとまりました。
それは、今(2014年)から15年ほど前のことです。その当時から、私は景気循環論に基づいて2016年に日本経済は破綻すると主張し続けてきました。それを知っていただきたいために、2010年と2012年に書籍を出版しました。その書籍は、内容が悪いのか、販売方法が悪いのか、あまり世間には知られていません。
このブログを始めたのは、景気循環のこと、今後の日本経済の破綻、そしてその中での生き残り方をできるだけ広く、多くの方に知っておいてほしいからです。
日本経済の破綻については、2010年「平成大混乱・大不況がやってくる」をお読みいただくと、当時の私の思いがわかっていただけると思います。私の考えは、現在でも当時とあまり変わっていません。ただ、現在は、当時より、日本経済の破綻がもっと現実味を帯びてきたと思うだけです。
「平成大混乱・大不況がやってくる」という長ったらしく意味の分からない名前になったのには、理由があります。
出版をお願いしたセルバ出版に原稿を持ち込んだときは、私は「平成大津波がやってくる」としていました。しかし、セルバ出版の森社長様から、「津波」はやめたほうがいいとアドバイスを受け、大津波のあと大混乱と大不況がやってくるので、そのタイトルになりました。
私が「平成大津波」と言っているのは、現実の津波だけを指しているのではありません。私は、日本経済を大混乱に陥れ、そして大不況をもたらすものを「平成大津波」と命名したのです。前の景気循環のどん底をもたらしたものを「昭和大津波」と言うならば、「昭和大津波」は第二次世界大戦(大東亜戦争)と言えるでしょう。
「平成大津波」としては、私は、自然災害、特に東京の直下型地震を取り上げました。2010年の書籍では、北海道・東北・関東を巨大地震が襲う可能性が高いことも述べました。
この書籍を出版して間もなく、2011年3月11日に東北に津波が来ましたが、これは私がいう「平成大津波」ではありません。地震であれば、もっと大きな影響が出る東京が、もっとも危険で可能性が高いのです。
東北も、津波の危険性は極めて高い状況でした。東北を津波が襲った当時、「想定外」という言葉がはやりましたが、東北の津波は、過去の歴史を見れば、来て当然といえるものです。なにも「想定外」はありませんでした。東京も同じく、大きな危険にさらされていることは「想定内」でしかありません。
東京の地震以外には、中国軍による日本企業の乗っ取りがもっとも可能性が高いと思います。中国軍が「平成大津波」を引き起こすかもしれません。
2012年には、「官制大不況は大転換のチャンス」という書籍を出版しました。これは、日本経済を崩壊に導くのは、有能な日本の官僚であるという考えに基づいています。「官製」ではなく、「官制」としたのは、官僚が不況を作るのではなく、官僚が統制をすることによって導き出される大不況という意味です。
日本の官僚は、私情をはさんだり、賄賂をとったりせず、命令されたことには忠実に従います。極めて有能な官僚です。しかし、経済や社会の先を予測して、先手を打って何かをしようという意思は持っていません。今のままの延長線上が未来であるとも思っています。しかも、官僚は、自分の定年までの期間さえ無事に過ごせれば、何も文句は言う必要がありません。
そのような官僚は、自らリスクを冒してまで、国民を守ることはしません。東北の津波のときと同じく、大きな事件が起これば、「想定外」として、自分だけ逃げればいいだけです。官僚には、何のリスクも責任もありません。自分たちが学生のころ学んだ、○×方式の答えを現実に当てはめていけばいいだけです。過去に経験しなかったことでも、学生時代の○×方式で答えるだけです。何も考える必要はありません
このような状態ですので、今のように「想定外」のことが立て続けに起こる時代には、まったく対応できません。でも、官僚は、そんなことは言いません。自分たちが日本を背負っているという思い込みで、過去に縛られながら、現状に立ち向かおうとしているだけです。そして、失敗しても、何も責任をとることなく、自らは定年を迎えて天下るだけです。
これでは、今の日本を、窮地から救いだすことはできません。
今の日本を救うには、経済を立て直し日本を再生させることが必要です。日本再生にもっとも有益な情報を与えてくれるのは、幕末に活躍した山田方谷です。山田方谷については、2010年の書籍で簡単に取り上げ、その後2012年の書籍で重点的に解説をしました。
山田方谷は、ケインズの一般理論が登場する100年前に経済再生の考え方を述べ、80年前にはケインズ的考え方により、備中松山藩を8年で立て直しました。日本には、このような偉人がいることを、多くの人に知ってもらいたいと思います。
さらに、物心両面という言葉があるように、物だけではうまくいきません。それが、2010年に取り上げた般若心経です。日本再生には、こころの問題が重要なポイントとなります。日本のこころは、宗教や風習などに表れています。
まだ書籍にはしていませんが、日本の歴史を再確認することも重要です。とくに、高天原の時代から奈良時代までの古代の歴史が重要だと思います。日本国家の成立を考えたとき、日本人こそ世界をまとめ、平和を構築できる民族であると確信するものです。
それらを踏まえて、日本人が、もともと持っている力を引き出すことによって、これからやってくる日本経済の破綻を乗り切ってもらいたいと考えています。そのために、WEBで情報を提供し、さらにセミナーなどで詳しく解説をしたいと考えています。私の考えに同調できる人と共に、生きる道を考えていければという思いでいっぱいです。
私が、このブログを始めたのには、以上のような思いがあってのことなのです。
般若理趣経の教え
願いごとに善いも悪いもない。
般若心経や浄土真宗の教えで、どのような願いも叶うと私は考えています。よく質問されるのは、お金を儲けたいなどの欲に絡むものは、叶わないのではないかということです。
私は、人間の欲望であれば、どのような願いも叶うと考えています。
ただし、仏教でいう五戒(浄土真宗で述べた五逆とはちがいます。)に抵触するような欲望は、一旦は願いが叶うとしても、それを長く続けるということはできないと考えるべきだと思います。
五戒について、Wikipediaで調べると、在家の信者が守るべき基本的な戒めとして、次のような内容が記載されています。
①不殺生戒(ふせっしょうかい) 生き物を殺してはいけない。
②不偸盗戒(ふちゅうとうかい) 他人のものを盗んではいけない。
③不邪淫戒(ふじゃいんかい) 不道徳な性行為を行ってはならない。これは、特に強姦や
不倫を指すが、他にも性行為に溺れるなどの行為も含む。
④不妄語戒(ふもうごかい) 嘘をついてはいけない。
⑤不飲酒戒(ふおんじゅかい) 酒を飲んではいけない。
5番目の不飲酒戒は、私にとっては、特に厳しいものがありますが、このような戒めはできるだけ守るとして、それ以外の欲望は、常に願い続ければすべて叶うと考えていいと思います。
その内容が、般若理趣経という高野山の真言密教のお経に書かれています。
般若理趣経というのは、正式には「大楽金剛不空眞實三摩耶經 般若波羅蜜多理趣品」という名称です。般若理趣経の正式名称に含まれている「不空」というのは、不空三蔵(705~774)の訳によるお経であるという意味です。
三蔵いうと、孫悟空に登場する三蔵法師かと思いきや、三蔵と名前のつくお坊さんはたくさんおられるようです。「不空」というのは、その三蔵のうちの一人です。ただ、この般若理趣経の解釈の仕方もいろいろとあるようですが、私は、インターネットで検索できる次のサイトを参考にしました。(感謝)
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/risukyou.htm
このサイトに行けば、全文の意味が記載されていますので、興味のある方は、ぜひご覧ください。このブログで記載した理趣経は、このサイトからの引用です。
さて、般若理趣経の本文ですが、初段として、次のような件があります。
初段 (大楽の法門) 金剛サッタの巻
その最初の教えは「一切の存在(法)は清浄である」という教えである。このことについて、大日如来は十七の清浄なる菩薩の境地をあげて次のように説かれた。
1.男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である。
2.欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である。
3.男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である。
4.異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である。
5.男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、
清浄なる菩薩の境地である。
6.欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である。
7.男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である。
8.男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である。
9.自慢の心も、清浄なる菩薩の境地である。
10.ものを飾って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である。
11.思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である。
12.満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である。
13.身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である。
14.目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である。
15.耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である。
16.この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である。
17.口にする味も、清浄なる菩薩の境地である。
なにゆえに、これらの欲望のすべてが清浄なる菩薩の境地となるのであろうか。これらの欲望をはじめ、世のすべてのものは、その本性は清浄なものだからである。
ゆえに、もし真実を見る智慧の眼である般若を開いて、これら一切をあるがままに眺めるならば、あなたたちは真実の智慧の境地に到達し、すべてみな清浄でないものがないという境地になるであろう。
この経文では、セックスに対する欲望は清浄なもの、清いものだと言っています。後半では、般若心経でも書かれている「眼耳鼻舌身意」という感覚器官で感じ取る「色声香味触法」もすべて清いものだとも言っています。
このように、般若理趣経によれば、人間が欲する欲望はすべて清いものだということです。だから、人間の欲望である限り、清いものであり、すべての願いは叶えられ、欲に絡むからとして除かれるなどということはないのです。
成功法則としての浄土真宗の教え(5)
<< 前回の記事 成功法則としての浄土真宗の教え(4)
親鸞聖人の悪人正機説
親鸞聖人の言葉をまとめた「歎異抄」は、悪人正機説を説いたものと言われています。その第3条にまさに、その言葉があります。
善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
この言葉に続いて、親鸞聖人の解説が記されています。現代語に直すと、次のような意味になります。
世間の人は常に「悪人でも往生できる。それなら善人ならなおさら往生できるはずだ。」という。この言い分は、正しいようにみえるけれども、本願他力の考え方にはそぐわない。
なぜかと言うと、自力を頼んで善行を積んで往生できる人は、他力を頼むこころが欠けているので、阿弥陀如来の本願ではない。しかし、自力のこころをひるがえして、他力を頼むようになると、ほんとうの浄土に往生できる。
煩悩具足の私たちは、どのような行をしても生死の苦しみから逃れられないのを憐れんで、阿弥陀如来が第18願を起こされた本意は、自力で成仏できない悪人が成仏するためなので、他力を頼むことしかできない悪人を往生させることこそが最大の目的なのだ。
よって、善人でも往生できるのだから、まして悪人はなおさらだと、おっしゃいました。
弘法大師空海のように、ほんとうに力のある人は、自力で救済されます。まさに、善人でも救われることがあるということです。
阿弥陀様の願は、自力で救われない凡愚の私たちを救ってやろうというものです。歎異抄では、このように自力で救われない人を悪人と言っています。このような悪人は、自力では救済されることはありません。そのような悪人こそ救ってやるのが、阿弥陀如来の本願であるというのが、悪人正機説の意味なのです。
むすび
浄土真宗シリーズの最後に、成功法則としての浄土真宗の教えの結論として、次のように言いたいと思います。
事業であれ、家内安全であれ、健康であれ、どのようなことでも、他力によって救われることを心の底から信じ、つねに願えば、必ず救われます。これが、阿弥陀如来の第18願であり本願です。
願いが叶う内容は、どのようなことでもかまいません。心の底から願い、そして必要なことは、その願いを願い続けることです。そうすれば、必ずその願いは叶います。
般若心経の「色即是空」は、思いは実現することを言った言葉ですが、浄土真宗でいう本願も、まったく同じことを言っているのです。
同じ仏教だから、同じになるのかどうかは分かりません。しかし、仏教のことは知らなかったであろう、ジェイムズ・アレンも、ナポレオン・ヒルも、ジョセフ・マーフィーも、そしてデール・カーネギーも、そのほかの人たちも、成功しが人たちは、すべて思いが叶うと言っています。
願いがあれば、こころの底からそれを願い、その願いを思い続けることです。そうすれば、必ず、その思いは実現します。
そんなことができるのは、特別な人だけだと考える人が多いと思います。でも、私でも、不動産を持ちたいと思い続けた結果、大阪市内の天王寺区で100坪の土地が手に入り、10階建てのビルを建てることができたのです。私のような凡愚の者でもできたのです。それが何よりの証拠だと思います。
願い事を、常にこころの中で思い続けてください。そうすれば、必ずその願いは叶います。
浄土真宗(了)
成功法則としての浄土真宗の教え(4)
<< 前回の記事 成功法則としての浄土真宗の教え(3)
今回は、五逆と正法誹謗について考えてみます。
阿弥陀如来の第18願によって、私たちの願いは叶うようになります。しかし、第18願の最後には、次のような言葉があります。
原文では、「唯除五逆誹謗正法」と書かれています。意味としては、「ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。」ということです。
至心信楽で、つねに念仏を唱えれば救われるのですが、五逆を犯した人と仏法を謗る正法誹謗の人は除くというものです。
五逆罪というのは、5つの重大な罪を犯すことです。
五逆の考え方で、小乗仏教と大乗仏教で、多少違いがあるようですが、ここでは小乗仏教の五逆罪だけを五逆として説明します。
①殺父(せっぷ、 父を殺すこと。)
②殺母(せつも。 母を殺すこと。)
③殺阿羅漢(せつあらかん。 阿羅漢 (聖者) を殺すこと。)
④出仏身血(しゅつぶっしんけつ。 仏の身体を傷つけて出血させること。)
⑤破和合僧(はわごうそう。 教団の和合一致を破壊し、分裂させること。 )
この五逆を犯しているとき、例えば、父を殺そうとして、正にその殺害行為をしているとき、その真っ最中に、自分だけは阿弥陀様に救ってもらいたいなどと思う人はいません。そのときは、完全に鬼になりきっているはずです。
ただ考えられるのは、長年寝たきりの父親の看病疲れから、思い余って父を殺すようなときは、父が亡くなってから救われますようにと南無阿弥陀仏と唱えることはあるかもしれません。このときは、父への回向ということになります。自分が救われるようにと思って、父を殺す人などいないでしょう。
いずれにせよ、このように父を殺しているときに、自分のために南無阿弥陀仏と唱える人などいないと思います。南無阿弥陀仏と唱えられない以上、阿弥陀様も救うことができないという意味だと私は理解しています。
次の、仏法を謗る(正法誹謗)とは、念仏による救済を誹謗中傷したり、念仏を否定する発言をしたりするだけではありません。念仏以外のほかの方法でないと救われないと思っているのも、正法誹謗になります。
このような人は、念仏では救われないと思っているのですから、当然のことながら、至心信楽とはなりえません。念仏を信じていないのですから、自ら願うこともなく、念仏により救われることはありえません。念仏を信じない人は、阿弥陀様の救いが得られないのです。
以上のように、五逆と正法誹謗は阿弥陀様の救済を受けることはできませんが、その後になって、心を正し、至心信楽になり、つねに念仏を唱えるようになれば、救われることになります。これでは、悪いことをした人を優遇しているように思われるかもしれません。しかし、浄土真宗の教えでは、そうなるべきだと私は考えています。
親鸞聖人が挙げた浄土真宗の七高僧の一人、曇鸞は最初不老不死の術(仙経)を学んだそうです。当然、このときは念仏を否定していたはずです。まさに正法誹謗です。
しかし、その後、菩提流支に出会い、他力の教えこそほんとうの救いであることを教えられ、「仙経」を焼き捨てて、念仏の教えに入ったということです。
曇鸞は、七高僧の一人とされていますし、親鸞聖人自身も、「鸞」の字をいただき、自分の名前としているくらいですから、以前は正法誹謗をしていたとしても、念仏を信じれば、その救いに会えると考えられます。
このように曇鸞の経歴などから考えると、五逆であれ正法誹謗であれ、その誤りに気づき、念仏こそが救われる道であると、心の底から信じられるようになれば救われると考えるべきだと思うのです。
成功法則としての浄土真宗の教え(3)
今回は、念仏と浄土の意味を考えてみたいと思います。
念仏は、南無阿弥陀仏と唱えるだけです。念仏は、ただ阿弥陀如来にすがれ、という意味に解釈されることが多いと思います。その結果、浄土に行くことができると言われています。
その行くことができる浄土とは、どこにあるのでしょうか。一般的には、西方の十万億土にあると言われています。西の遠いところという意味でしょう。
浄土真宗で重要な三つのお経、三部経のうちの一つ、観無量寿経には、日想観という方法によって、西方にある極楽世界を観る方法が述べられています。目の見えるものは、皆この日想観をすべきであるといわれるくらい誰でもできるように書かれています。
その極楽世界を観る方法は、まず、心を専一にして西方を想います。そして、日没を見て想念を起こします。正しく西に向かって坐して、日を観て、心を堅くして想念が他に移らないようにします。日が没するときの形は、鼓を掛けたようにまん丸く見えます。日を観終わったとき、目を閉じても目を開けても、周りをはっきりと見ることができるとも書かれています。これを日想観といいます。
でも、これは修行をしていない人間には、できるものではありません。
私は、今から20年以上前になると思いますが、ここに書いてあるように夕陽を見つめようとしたことがありました。地平線や水平線の間際で、太陽光線が弱くなっているときなら見ることができるかもしれません。しかし、大阪などのビルが建てこんだところでは、地平線や水平線に沈もうとしている夕陽など見ることはできません。もう少し高い位置にあるお日様を見ることになります。
西に沈む少し前の夕陽を見るのですが、太陽の光だけが目に飛び込んできて、周りは真っ暗になります。お経に書かれているように「目を閉じても目を開けても、周りをはっきりと見ることができる」というのとは全く違いました。聞くところによると、このように太陽を直視すると、失明するそうです。私は、幸いにして失明はしませんでしたが、危ないところでした。
でも、修行を積むと、日想観ができるようになります。昔は御所に日想観をする小部屋が用意されていたということです。この日想観でわかるように、西方の極楽世界を想うことが重要だと言っています。そのようなこともあって、浄土は西方十万億土にあると言われています。
しかし、何にでも反対するようで、まるでクレーマーのような気もしますが、私は浄土は西方十万億土にはないと考えています。私は、浄土は、私たちが生きている世界そのものだと考えているのです。それに気づくことが重要なのです。
浄土が、私たちが生きている世界そのもだということは、阿弥陀如来の48願を見るとわかります。そのうちの第18願は、次のような内容でした。
私が仏となる以上、あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようと願って、あなたが常に念仏を唱えても、往生できないということがあるならば、私は仏にならない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。
修行中の法蔵菩薩がそのままで、今でも阿弥陀如来になっていないのなら、いくら念仏を唱えても往生はできないでしょう。しかし、法蔵菩薩はすでに阿弥陀如来になっておられるので、この願は成就しています。したがって、常に念仏を唱えれば、必ず、往生、つまり浄土に生まれることができるのです。
その浄土ですが、一般的には、死んだときに行くところとされています。ところが、この第18願を見ると、死んだときということは一切書かれていないことは理解できるでしょう。
48願の内には、5つの臨終のときに関する願があります。48のうちのたった5つだけです。すべての願の約1割だけが、臨終のときのものであり、その他は臨終のときではなく、私たちが生きているときのことが書かれているのです。私は、そのように理解しています。
ちなみに、48願のうち臨終のときのことが書かれた願は、次のとおりです。
第二願
願名 - 不更悪趣の願
原文 - 設我得佛 國中人天 壽終之後 復更三惡道者 不取正覺
第十九願
願名 - 至心発願の願・修諸功徳の願・臨終現前の願・現前導生の願・来迎引接の願・至心発願の願
原文 - 設我得佛 十方衆生 發菩提心 修諸功德 至心發願 欲生我國 臨壽終時 假令不與大衆圍繞 現其人前者 不取正
第三十五願
願名 - 女人成仏の願・女人往生の願(法然・大経釈)・変成男子の願(親鸞『浄土和讃』)・転女成男の願、聞名転女の願(存覚『女人往生聞書』)
原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 其有女人 聞我名字 歡喜信樂 發菩提心 厭惡女身 壽終之後 復爲女像者 不取正覺
第三十六願
願名 - 聞名梵行の願・常修梵行の願
原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 諸菩薩衆 聞我名字 壽終之後 常修梵行 至成佛道 若不爾者 不取正覺
第四十三願
願名 - 聞名生貴の願・生尊貴家の願
原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 壽終之後 生尊貴家 若不爾者 不取正覺
以上Wikipediaより
これらは、臨終のときに関するものですが、この中に第18願は含まれていないのです。それなら、生きて浄土に生まれるというのは、どういうことなのでしょうか。
私たちは、四苦八苦の中で生きています。四苦八苦とは、次のとおりです。
①~④ 生老病死(しょうろうびょうし、生老病死の苦しみ)
⑤ 愛別離苦(あいべつりく、愛する者との別離する苦しみ)
⑥ 怨憎会苦(おんぞうえく、憎み嫌う者と会合する苦しみ)
⑦ 求不得苦(ぐふとくく、求めても得られない苦しみ)
⑧ 五陰盛苦(ごうんじょうく、人の身心に満ちている苦しみ)
生老病死で、まず四苦となります。次の⑤~⑧までの四苦を合わせて八苦となります。四苦八苦というのは、このことです。この四苦八苦の苦しみから逃れられるようにしてあげようというのが仏さまの教えです。
神社にお参りしたときに、商売繁盛、家内安全などの御祈祷をしてもらったり、お守りを買い求めたりしますが、事業の成功、健康など。求めるものは何でも手に入ること、これらが私たちの願いです。これらに代表される願いが叶うことが、すなわち浄土に生まれることなのです。つまり、浄土は西方十万億土にあるのではなく、今、ここにいて願いが叶うこと、これが浄土の姿なのです。
浄土真宗では、常に願いを想い続けるだけで、浄土に生まれること、すなわち願いが叶うようになると言うのです。これこそ、成功法則そのものです。
ただし、一般の浄土真宗のお寺では、お葬式をすることが中心的な仕事で、人が死んでからが仕事となっています。ですから、生きている間の事にはあまり関与しません。
私のような意見について、お寺で聞いてみると、バカにされるのがオチだと思います。くれぐれも話す相手を間違わないようにしていただきたいと思います。
いずれにせよ、浄土真宗の中心的な教えは、阿弥陀如来の他力を信じ、常に願いを想い続ける人は、その願いを達成することができます。これが、浄土真宗の教えであり、成功法則たるゆえんなのです。
それでは、念仏とはどういうものなのでしょうか。
南無阿弥陀仏というのは、阿弥陀如来を信じますという宣言です。何を信じるのでしょうか。阿弥陀如来の利他の力です。私たちの願いが、生きている今、ここにいて叶うこと、これが願いです。この願いが叶うことが、浄土に生まれることになるのです。
このように、すでに浄土に生まれさせていただいた私たちは、感謝の念を込めて、常に南無阿弥陀仏と念仏を唱えるのです。そうすれば、常に、願いを叶えてやろうというのが、阿弥陀様の第18願なのです。
感謝、感謝、以外のなにものもありません。
成功法則としての浄土真宗の教え(2)
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浄土真宗の基本的な教えは、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ、あるいは、なもあみだぶつ)と唱えれば、阿弥陀如来に浄土に導いてもらえるというものです。
自分で修業をして浄土に至るのは、自力に頼るもので自力本願です。浄土真宗では、自力では浄土にはいけないと考えます。阿弥陀如来の導き、つまり他力があって、はじめて浄土に行くことができるのです。これが他力本願であり、これが浄土真宗の基本的な教えです。
まず、取り上げたいのは、他力と言っても、どのようにすれば浄土に行けるのかということです。
それを確認するために、阿弥陀如来は、なぜ私たちを浄土に導くことができるのかを知る必要があります。
阿弥陀如来がまだ法蔵菩薩という名前で修業をしておられたとき、48の願を立てられました。そのすべての願が成就できなければ、仏にならないというものです。その48の願は、長い長い期間の修行の末、すべて成就できましたので、現在は法蔵菩薩ではなく阿弥陀如来となられて、私たちを導いてくださるのです。
浄土真宗では、その48の願のうち、もっとも重要な願は第18願とされています。その内容を確認するため、Wikipediaを使わせていただきます。
Wikipediaに四十八願という項目があり、そこには第18願の内容も記載されています。それをここに転載します。
第十八願
願名 - 念仏往生の願・選択本願・本願三心の願・至心信楽の願・往相信心の願
原文 - 設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法
訓読 - 設(も)し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)し、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ、唯五逆と誹謗正法は除く。
たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。
意訳 - 私が仏となる以上、(誰であれ)あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようとと願って、少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、(万が一にも)往生しないということがあるならば、(その間、)私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。(第十八念仏往生の願)[4]わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国[5]に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません 。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。
Wikipedia 四十八願より
私が、ここで、特に取り上げたいのは、原文にある「乃至十念」です。
意訳では、「少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず」とか「わずか十回でも念仏して」と表示されています。
この訳は一般的なものですが、私は、この訳は間違いであると考えています。「乃至」ということばは、一般的には「ないし」と読み、一ないし十、あるいは一から十という意味となります。私は、ここでは「乃至」を「ないし」と読むべきではないと考えています。
電子辞書の広辞苑第六版で「乃」を引きますと、「なんじ、おまえ」という意味があると記載されています。つまり、「乃至十念」は、「なんじ十念に至れば」と読むべきなのです。
そこで、さらに問題になるのは「十念」の「十」です。これも広辞苑でも、数字の十以外には、「全部、完全」という意味だけですが、私はあえて「常に」と理解すべきだと考えます。つまり、「十念」は「つねに念仏を唱える」という意味になります。
これを踏まえて、第18願の私なりの意訳をすると、次のようになります。
私が仏となる以上、あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようと願って、あなたが常に念仏を唱えても、往生できないということがあるならば、私は仏にならない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。
まだ、念仏の意味や、浄土とは何かということ、さらに五逆と正法誹謗について説明が必要となりますが、それは次回以降とさせていただきます。
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成功法則としての浄土真宗の教え(1)
私は、日本経済は70年周期で大きな波が訪れ、70年に1回国家破綻をしていると考えています。私の説では、次のどん底は2016年です。その内容を伝えたいと思い、私は「平成大混乱・大不況がやってくる」という本を2010年に上梓しました。
2016年のどん底では、主に、国債の切捨てと、円の切り替えが行なわれます。そのどん底が来るためには、日本は大混乱に陥っており、大不況となっていることが大前提です。そのキッカケをつくるものを、私は平成大津波と名付けました。
2011年の東北の津波は、1896年、1933年の2度にわたる三陸地震津波の、三度目の襲来です。これは大きな津波でしたが、私が言った平成大津波とは違います。平成大津波は、日本全国を、一度に破綻に導くものです。それが何かは分かりませんが、東京の地震や中国との経済戦争あるいは武力戦争などが考えられます。
私たち一般の国民には、平成大津波と、それから引き起こされる大混乱・大不況を防ぐことはできません。私たちにできることは、大津波の中にあっても、私たちが経営する会社、その従業員、取引先、そしてその家族たちだけでも守ることです。
国家破綻をするときに、会社や従業員などを守るのは大変なことです。人間一人の力では、どうにもならないと思います。でも、それを助けてくれるものに、般若心経があるのです。その般若心経の教えを、「平成大混乱・大不況がやってくる」で紹介しました。
般若心経には、私たちの思いは必ず実現すると書いております。ナポレオン・ヒルなども思考は現実化すると言っていますが、般若心経をみると、2000年以上前から、そのようなことは分かっていたのです。
つまり、経営者一人の力だけではどうにもならないものでも、経営者の強い思いがあれば、空の力を使って会社や従業員などを救うことができるのです。その点を、私は「平成大混乱・大不況がやってくる」で書きました。
実は、浄土真宗の教えも、その般若心経の教えと同じなのです。
般若心経は成功法則であるというのが私の考えです。浄土真宗の教えも、成功法則そのものであったのです。その点を、これから数回に分けて書いていこうと思います。
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