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 浄土真宗の基本的な教えは、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ、あるいは、なもあみだぶつ)と唱えれば、阿弥陀如来に浄土に導いてもらえるというものです。
 自分で修業をして浄土に至るのは、自力に頼るもので自力本願です。浄土真宗では、自力では浄土にはいけないと考えます。阿弥陀如来の導き、つまり他力があって、はじめて浄土に行くことができるのです。これが他力本願であり、これが浄土真宗の基本的な教えです。

 まず、取り上げたいのは、他力と言っても、どのようにすれば浄土に行けるのかということです。
 それを確認するために、阿弥陀如来は、なぜ私たちを浄土に導くことができるのかを知る必要があります。
  阿弥陀如来がまだ法蔵菩薩という名前で修業をしておられたとき、48の願を立てられました。そのすべての願が成就できなければ、仏にならないというものです。その48の願は、長い長い期間の修行の末、すべて成就できましたので、現在は法蔵菩薩ではなく阿弥陀如来となられて、私たちを導いてくださるのです。

 浄土真宗では、その48の願のうち、もっとも重要な願は第18願とされています。その内容を確認するため、Wikipediaを使わせていただきます。
  Wikipediaに四十八願という項目があり、そこには第18願の内容も記載されています。それをここに転載します。


第十八願
願名 - 念仏往生の願・選択本願・本願三心の願・至心信楽の願・往相信心の願


原文 - 設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法


訓読 - 設(も)し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)し、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ、唯五逆と誹謗正法は除く。
 たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。


意訳 - 私が仏となる以上、(誰であれ)あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようとと願って、少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、(万が一にも)往生しないということがあるならば、(その間、)私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。(第十八念仏往生の願)[4]わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国[5]に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません 。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。
                                            Wikipedia 四十八願より

 私が、ここで、特に取り上げたいのは、原文にある「乃至十念」です。
 意訳では、「少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず」とか「わずか十回でも念仏して」と表示されています。
 この訳は一般的なものですが、私は、この訳は間違いであると考えています。「乃至」ということばは、一般的には「ないし」と読み、一ないし十、あるいは一から十という意味となります。私は、ここでは「乃至」を「ないし」と読むべきではないと考えています。
 電子辞書の広辞苑第六版で「乃」を引きますと、「なんじ、おまえ」という意味があると記載されています。つまり、「乃至十念」は、「なんじ十念に至れば」と読むべきなのです。
 そこで、さらに問題になるのは「十念」の「十」です。これも広辞苑でも、数字の十以外には、「全部、完全」という意味だけですが、私はあえて「常に」と理解すべきだと考えます。つまり、「十念」は「つねに念仏を唱える」という意味になります。
 これを踏まえて、第18願の私なりの意訳をすると、次のようになります。


私が仏となる以上、あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようと願って、あなたが常に念仏を唱えても、往生できないということがあるならば、私は仏にならない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。

まだ、念仏の意味や、浄土とは何かということ、さらに五逆と正法誹謗について説明が必要となりますが、それは次回以降とさせていただきます。

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