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 今回は、念仏と浄土の意味を考えてみたいと思います。


 念仏は、南無阿弥陀仏と唱えるだけです。念仏は、ただ阿弥陀如来にすがれ、という意味に解釈されることが多いと思います。その結果、浄土に行くことができると言われています。
 その行くことができる浄土とは、どこにあるのでしょうか。一般的には、西方の十万億土にあると言われています。西の遠いところという意味でしょう。
 浄土真宗で重要な三つのお経、三部経のうちの一つ、観無量寿経には、日想観という方法によって、西方にある極楽世界を観る方法が述べられています。目の見えるものは、皆この日想観をすべきであるといわれるくらい誰でもできるように書かれています。

 その極楽世界を観る方法は、まず、心を専一にして西方を想います。そして、日没を見て想念を起こします。正しく西に向かって坐して、日を観て、心を堅くして想念が他に移らないようにします。日が没するときの形は、鼓を掛けたようにまん丸く見えます。日を観終わったとき、目を閉じても目を開けても、周りをはっきりと見ることができるとも書かれています。これを日想観といいます。

 でも、これは修行をしていない人間には、できるものではありません。
 私は、今から20年以上前になると思いますが、ここに書いてあるように夕陽を見つめようとしたことがありました。地平線や水平線の間際で、太陽光線が弱くなっているときなら見ることができるかもしれません。しかし、大阪などのビルが建てこんだところでは、地平線や水平線に沈もうとしている夕陽など見ることはできません。もう少し高い位置にあるお日様を見ることになります。
 西に沈む少し前の夕陽を見るのですが、太陽の光だけが目に飛び込んできて、周りは真っ暗になります。お経に書かれているように「目を閉じても目を開けても、周りをはっきりと見ることができる」というのとは全く違いました。聞くところによると、このように太陽を直視すると、失明するそうです。私は、幸いにして失明はしませんでしたが、危ないところでした。
 でも、修行を積むと、日想観ができるようになります。昔は御所に日想観をする小部屋が用意されていたということです。この日想観でわかるように、西方の極楽世界を想うことが重要だと言っています。そのようなこともあって、浄土は西方十万億土にあると言われています。


 しかし、何にでも反対するようで、まるでクレーマーのような気もしますが、私は浄土は西方十万億土にはないと考えています。私は、浄土は、私たちが生きている世界そのものだと考えているのです。それに気づくことが重要なのです。
 浄土が、私たちが生きている世界そのもだということは、阿弥陀如来の48願を見るとわかります。そのうちの第18願は、次のような内容でした。


私が仏となる以上、あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようと願って、あなたが常に念仏を唱えても、往生できないということがあるならば、私は仏にならない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。


 修行中の法蔵菩薩がそのままで、今でも阿弥陀如来になっていないのなら、いくら念仏を唱えても往生はできないでしょう。しかし、法蔵菩薩はすでに阿弥陀如来になっておられるので、この願は成就しています。したがって、常に念仏を唱えれば、必ず、往生、つまり浄土に生まれることができるのです。
 その浄土ですが、一般的には、死んだときに行くところとされています。ところが、この第18願を見ると、死んだときということは一切書かれていないことは理解できるでしょう。
 48願の内には、5つの臨終のときに関する願があります。48のうちのたった5つだけです。すべての願の約1割だけが、臨終のときのものであり、その他は臨終のときではなく、私たちが生きているときのことが書かれているのです。私は、そのように理解しています。

 ちなみに、48願のうち臨終のときのことが書かれた願は、次のとおりです。
第二願
願名 - 不更悪趣の願
原文 - 設我得佛 國中人天 壽終之後 復更三惡道者 不取正覺


第十九願
願名 - 至心発願の願・修諸功徳の願・臨終現前の願・現前導生の願・来迎引接の願・至心発願の願
原文 - 設我得佛 十方衆生 發菩提心 修諸功德 至心發願 欲生我國 臨壽終時 假令不與大衆圍繞 現其人前者 不取正


第三十五願
願名 - 女人成仏の願・女人往生の願(法然・大経釈)・変成男子の願(親鸞『浄土和讃』)・転女成男の願、聞名転女の願(存覚『女人往生聞書』)
原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 其有女人 聞我名字 歡喜信樂 發菩提心 厭惡女身 壽終之後 復爲女像者 不取正覺


第三十六願
願名 - 聞名梵行の願・常修梵行の願
原文 - 設我得佛 十方無量 不可思議 諸佛世界 諸菩薩衆 聞我名字 壽終之後 常修梵行 至成佛道 若不爾者 不取正覺


第四十三願
願名 - 聞名生貴の願・生尊貴家の願
原文 - 設我得佛 他方國土 諸菩薩衆 聞我名字 壽終之後 生尊貴家 若不爾者 不取正覺

                                                     以上Wikipediaより


 これらは、臨終のときに関するものですが、この中に第18願は含まれていないのです。それなら、生きて浄土に生まれるというのは、どういうことなのでしょうか。


 私たちは、四苦八苦の中で生きています。四苦八苦とは、次のとおりです。
   ①~④ 生老病死(しょうろうびょうし、生老病死の苦しみ)
   ⑤   愛別離苦(あいべつりく、愛する者との別離する苦しみ)
   ⑥   怨憎会苦(おんぞうえく、憎み嫌う者と会合する苦しみ)
   ⑦   求不得苦(ぐふとくく、求めても得られない苦しみ)
   ⑧   五陰盛苦(ごうんじょうく、人の身心に満ちている苦しみ)
 生老病死で、まず四苦となります。次の⑤~⑧までの四苦を合わせて八苦となります。四苦八苦というのは、このことです。この四苦八苦の苦しみから逃れられるようにしてあげようというのが仏さまの教えです。
 神社にお参りしたときに、商売繁盛、家内安全などの御祈祷をしてもらったり、お守りを買い求めたりしますが、事業の成功、健康など。求めるものは何でも手に入ること、これらが私たちの願いです。これらに代表される願いが叶うことが、すなわち浄土に生まれることなのです。つまり、浄土は西方十万億土にあるのではなく、今、ここにいて願いが叶うこと、これが浄土の姿なのです。
 浄土真宗では、常に願いを想い続けるだけで、浄土に生まれること、すなわち願いが叶うようになると言うのです。これこそ、成功法則そのものです。


 ただし、一般の浄土真宗のお寺では、お葬式をすることが中心的な仕事で、人が死んでからが仕事となっています。ですから、生きている間の事にはあまり関与しません。
 私のような意見について、お寺で聞いてみると、バカにされるのがオチだと思います。くれぐれも話す相手を間違わないようにしていただきたいと思います。
 いずれにせよ、浄土真宗の中心的な教えは、阿弥陀如来の他力を信じ、常に願いを想い続ける人は、その願いを達成することができます。これが、浄土真宗の教えであり、成功法則たるゆえんなのです。


 それでは、念仏とはどういうものなのでしょうか。
 南無阿弥陀仏というのは、阿弥陀如来を信じますという宣言です。何を信じるのでしょうか。阿弥陀如来の利他の力です。私たちの願いが、生きている今、ここにいて叶うこと、これが願いです。この願いが叶うことが、浄土に生まれることになるのです。
 
 このように、すでに浄土に生まれさせていただいた私たちは、感謝の念を込めて、常に南無阿弥陀仏と念仏を唱えるのです。そうすれば、常に、願いを叶えてやろうというのが、阿弥陀様の第18願なのです。

 感謝、感謝、以外のなにものもありません。


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