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今回は、五逆と正法誹謗について考えてみます。
阿弥陀如来の第18願によって、私たちの願いは叶うようになります。しかし、第18願の最後には、次のような言葉があります。
原文では、「唯除五逆誹謗正法」と書かれています。意味としては、「ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。」ということです。
至心信楽で、つねに念仏を唱えれば救われるのですが、五逆を犯した人と仏法を謗る正法誹謗の人は除くというものです。
五逆罪というのは、5つの重大な罪を犯すことです。
五逆の考え方で、小乗仏教と大乗仏教で、多少違いがあるようですが、ここでは小乗仏教の五逆罪だけを五逆として説明します。
①殺父(せっぷ、 父を殺すこと。)
②殺母(せつも。 母を殺すこと。)
③殺阿羅漢(せつあらかん。 阿羅漢 (聖者) を殺すこと。)
④出仏身血(しゅつぶっしんけつ。 仏の身体を傷つけて出血させること。)
⑤破和合僧(はわごうそう。 教団の和合一致を破壊し、分裂させること。 )
この五逆を犯しているとき、例えば、父を殺そうとして、正にその殺害行為をしているとき、その真っ最中に、自分だけは阿弥陀様に救ってもらいたいなどと思う人はいません。そのときは、完全に鬼になりきっているはずです。
ただ考えられるのは、長年寝たきりの父親の看病疲れから、思い余って父を殺すようなときは、父が亡くなってから救われますようにと南無阿弥陀仏と唱えることはあるかもしれません。このときは、父への回向ということになります。自分が救われるようにと思って、父を殺す人などいないでしょう。
いずれにせよ、このように父を殺しているときに、自分のために南無阿弥陀仏と唱える人などいないと思います。南無阿弥陀仏と唱えられない以上、阿弥陀様も救うことができないという意味だと私は理解しています。
次の、仏法を謗る(正法誹謗)とは、念仏による救済を誹謗中傷したり、念仏を否定する発言をしたりするだけではありません。念仏以外のほかの方法でないと救われないと思っているのも、正法誹謗になります。
このような人は、念仏では救われないと思っているのですから、当然のことながら、至心信楽とはなりえません。念仏を信じていないのですから、自ら願うこともなく、念仏により救われることはありえません。念仏を信じない人は、阿弥陀様の救いが得られないのです。
以上のように、五逆と正法誹謗は阿弥陀様の救済を受けることはできませんが、その後になって、心を正し、至心信楽になり、つねに念仏を唱えるようになれば、救われることになります。これでは、悪いことをした人を優遇しているように思われるかもしれません。しかし、浄土真宗の教えでは、そうなるべきだと私は考えています。
親鸞聖人が挙げた浄土真宗の七高僧の一人、曇鸞は最初不老不死の術(仙経)を学んだそうです。当然、このときは念仏を否定していたはずです。まさに正法誹謗です。
しかし、その後、菩提流支に出会い、他力の教えこそほんとうの救いであることを教えられ、「仙経」を焼き捨てて、念仏の教えに入ったということです。
曇鸞は、七高僧の一人とされていますし、親鸞聖人自身も、「鸞」の字をいただき、自分の名前としているくらいですから、以前は正法誹謗をしていたとしても、念仏を信じれば、その救いに会えると考えられます。
このように曇鸞の経歴などから考えると、五逆であれ正法誹謗であれ、その誤りに気づき、念仏こそが救われる道であると、心の底から信じられるようになれば救われると考えるべきだと思うのです。
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